国内における馴れ合い、グローバルな異文化との対峙

morioka (unseal_art) on Twitter

いささか愚痴も含みますが、NPO的な活動を含め、日本のさまざまなアートメディアがメジャーなギャラリーのエスタブリッシュされた作家だけを取り上げていることにいささか辟易します。

アートが現状に挑戦するものだとすれば、少なくともメディアは、メジャーのさまざまな仕掛けから逃れ、地平線ぎりぎりの方角を常にめざすべきだと思います。アートは本質的にマイナーなものではなかったでしょうか。

現在のアートメディアの在り方を見ていると、口先でどう言っているかは別にして、基本的に国内志向ではないでしょうか。そうである限り、衰退に向かわざるをえないでしょう。大胆に一歩外にでることから始めるべきだと感じます。

これは考えてみると、たんにメディアだけでなく、アートメディアがギャラリーの動きの反映でもあるとすれば、(自戒を含めて言えば)ギャラリーにも当てはまります。

ギャラリーが一歩外に出ることはグローバル化することを意味しますが、それが(ただ外国作家を紹介するという単純なことなどを超えて)いったいどんなことかを私たちもシリアスに考える時期に入っていると思います。

アートをファッション化することにはダメ出しをしているギャラリーがみずからファッション化を促進している現状では、単にメディアだけを批判してもあまり生産的でないと思います。

そもそもギャラリーと慣れ合うところからまともな批評が出てくるはずがないという基本的な認識が批評家たちにも欠如しています。

そういう意味で、ギャラリーも、メディアも、批評家たちもただただローカルの中で慣れ合いの談合体質に浸かっているのが現状ではないでしょうか。そこからはグローバルに異文化と対峙していく動きが生まれようがない気がします。

補足すれば、異文化との対峙とは、異文化との格闘(反発と吸収)の中で、ハイブリッドなものを生み出していくことを意味します。

もう一つ補足すれば、地平線の方向へとは、「私作る人、私見る人」という単純な線引きを撹乱することだと思います。もともと現代アートはそれを含めた冒険的な試みだったはずです。

だとすれば、ギャラリーも、作品と見る側、コレクター側の新しい回路を見つけ出していく必要があるでしょう。

課題は、たぶん作り手(作家)、見る側(コレクター)、見せて販売する側(ギャラリー)、批評家たちの間で働く力学が火花を散らすような関係をいかに生みだすかであり、そこにグローバル化が深くかかわってくる気がします。

#また補足になりますが、見る側と作品の線引きの撹乱とはたんにフェリックス・ゴンザレス・トーレスに代表されるような参加型の作品だけを意味しているわけではありません。