作家にすら読まれない美術批評

Diary written with English language skill at dog level シンポジウム「批評」

4月にTWS本郷で見た「絵画」をテーマにシンポジウムが面白かったので、そのイベントの主宰者であった「美術犬」が、今度は「批評」をテーマに美術評論家をパネラーに揃えてシンポジウムを行なうというので、昨日小雨の降るなか横浜まで見に行ってきた。
出演者は司会の雨宮庸介(美術家。以下司会者)、土屋誠一(美術批評家、沖縄県立大学講師。以下批評家A)、沢山遼(美術批評。以下批評家B)、粟田大輔(東京藝術大学玉川大学非常勤講師。以下批評家C)の四人。

最後に、今回司会者が同業の批評家ではなく、美術家であったことは実は大きかったのではないだろうか。それも「批評家言語」をペラペラ喋るような美術家なんかではなく、ちゃんと我々と同じ言葉で喋る美術批評の「門外漢」であったことが、議論を机上の空論にせず、我々の生きる世界とも地続きの場所にある問題として感じさせてくれていたように思う。発言の機会はそれほど多くはなかったが、彼の発言や質問、そして態度(批評家Aと批評家Bのプレゼンのあとにはスムーズに質問が繰り出せたのに対し、批評家Cのプレゼンが終了したときはしばらく呆然として「えーーーと、なにを喋ればいーのかなー・・・」みたいな状態になっていたのはあまりにも的確で笑えたw)は、どれも議論を進める上で有効だったと思う。
あと彼が批評家Cから「美術批評って読む?」とツッコまれたとき、ウッと数瞬詰まったあと「すごく・・・読まないですね」と答えて会場の笑いを誘っていたが、それに続けて彼が「BTとかを読んでいても目が滑ってしまう」「でも批評も作品と同じですべてを読む必要はないと思うし、別に読まなくてもいいものもたくさんあると思うが、真に読むべき価値あるものもあると思う。その本当に読むべき美術批評がいったいどこにあるのかその情報がまったくなくて読み逃している現状というのは、なんと言うか・・・ホントにモッタイナイと思う」と発言していたのにも大いに共感したし、美術批評の置かれた現状の一端をその言葉が表しているようにも感じられ、印象的だった。

・・・でも、美術批評ってイッタイどこで読めるもんなんだ?